家を出る・・・
みんな、その日のことを覚えているんでしょうか。
ぼくの場合は22の秋でした。
学校に行きながらアルバイトで働いていた喫茶店が垂水の商店街の中にあったん
ですが、そこが新たに高砂に店を出すことになりまして、どういうわけか成り行
きでぼくが店長で行くことになったんですよ。
開店準備やらなんやらで、バタバタと急に行かんとあかんようになりましてね、
ほんとになんでもない普通の晩でしたわ。
母親は仕事でまだ帰宅しておらず、父親だけに、「ほな、行ってくるわ」と言い
残して、布団だけ持って家を出た、というかすかな記憶が残ってます。
もちろんその時はすぐにでも帰って来るつもりでいたし、全然おおげさな感情
なんてなかったんですよ。
でも結果から言うとその日以来一度も実家で泊ることはなかったんですよね。
今のかみさんとふたりでやることになったので、とりあえず、けじめをつける
ために婚姻届を提出し、喫茶店の2階で寝泊まりしながら、週2回学校のある
日はその時間だけ抜けて学校へ行きその他の日は6時起きで店やって、晩8時
まで・・・という生活が続きました。
翌年の春には学校も終わり、ようやく仕事に専念できるよにはなったのですが
、定休日なんてもってのほかでね、休みがないから家に帰ることもできないわ
けですね。
よく考えてみると、うちのかみさんの方もそれ以来実家に泊ったことないです
わ。
親にしたら淋しいこともあったのかもしれませんね。
その頃ぼくの家は鉄筋コンクリート5階建ての市営住宅の5階でしてね、窓か
ら明石海峡が一望できるのがお気に入りでしたが、板張りの台所のほかに二部
屋あるだけだったので、兄と両親で家族4人揃ってる時期には狭かったんでし
ょうね、当時は感じませんでしたけど。
兄が結婚して出て行き、ぼくがそういう風に出て行き、その後父親がすぐ亡く
なり、母親ひとりで、その後20年ほど暮らしたのですが、8年前にうちに
来てもらってからはその部屋は空き家のままになってます。
近々取り壊す予定らしくて次の入居者を入れないそうです。
つい先日、用事ができて母親とその団地を見る機会があったのですが、下から
見たぼくらの部屋は明かりもなく、えらく淋しい表情に見えましたわ。
長男が学校を卒業して就職が東京に決まり、いよいようちを出ていく日・・・
というのがありましてね。
うちからほんの50mほどのところがバス停なのですが、そこまで一緒に行き
バスを待つ間、別に話すこともなくてね。
なんか気の利いたことでも言わんとあかんな、とは思ったものの、ドラマじゃ
ないしね、そんなにかっこよくはいきませんわ。
しばらくして道のむこうにバスが見えた時でした。
さすがに胸にこみ上げるものがありましてね。
そうしてなんとかオヤジは照れ臭いの我慢して息子と初めて握手なるもの
をしましたよ。「ま、がんばれ」ぐらいの意味でしょうかね。
ちっこい頃はよくつないだ「手」。
久しぶりに触れた手は大人の手になってました。
その日を境にヤツは「東京の人」になってしまいました。
次男坊の方がどうゆうわけか先に結婚し、子供もできた(ぼくの孫ね)のです
がその全ての行程が学生の時期のできごとでしてね、なんかグズグズというのか
グダグダというのか「この日から」という境目がはっきりせずじまいですわ。
もう今ではすっかり「京都の人」なんですけどね。
加古川に「帰る」・・・から京都に「帰る」加古川に「来る」・・・という
感覚になった境目はどこらへんやったんでしょうか。
ま、ふたりとも「よその人」になってしまった感覚はぼくには頼もしく思えるん
ですよ。男の子やしね。
でもガランと開いたヤツらの部屋を見ると、もう「うちの子」じゃないんやな、
という淋しさはありますね。
いや、また「うちの子」になられても実際困るんですけどね。
今では28歳と25歳になってしまった息子たちがまだ四っつと一つぐらい
の頃からかなぁ、始まりは。
まだ「アウトドア」とかのコトバすら世間ではあまり知られていなかった時代
ですわ。
以前20年暮らしていた店舗兼住宅の我が家の生活空間は四畳半ほどの広さの
板の間が倉庫と作業場と居間と事務所と食堂と客間を兼ねていたので、居心地
は悪くなかったものの、激しい狭さ加減でしてね。ゲキセマ!
休みの日にはとにかく「どっか広〜いところ」へ行きたい欲求が常にあったん
ですよ。
初めのうちは軽のワンボックスに毛布1枚積んで、チョロっと子供の遊び道具
積んで、なんか適当に食べるモン積んで、当時何にもなかった加古川の河原へ
でかけて行ってましたね。
段ボールを拾ってきて土手で草すべりしたり、毛布に寝転がってひなたぼっこ
したりして、とにかく何にもない、その広さを満喫してました。
休みの度にしょっちゅうそうやって過ごしたものですが、それが時を経るごと
に持っていくもののリストがどんどん増えていくんですね。
植村直巳を尊敬し、椎名誠を読みあさり、野田知佑に共感し、BE-PALと
いう雑誌にかぶれていたぼくは「アウトドア」なるもののマネゴトにどんどん
はまり込んで行ったのでありますよ。
犬が仲間に加わり、バイクや自転車を持って行くようになり、卓上カセット
コンロはアウトドア用のガスコンロやガソリンコンロに代わり、椅子とテーブル
は必需品になり、夏はクーラーボックスにはビールが入ってないとヨメが暴れ、
冬にはストーブ持ち出して、お酒の熱燗、そしてメニューは鍋になり・・・・
「河原行こかぁ?」は我々家族の合言葉みたいになっていきました。
そうこうするうちに近所に住む同じような年頃の子育て中の友人家族を誘う
ようになると、「キャンプせぇへん?」はまぁ、自然な流れですわね。
毎年お盆の休みには必ずやるようになりました。
2家族が3家族になり、4家族の大所帯の頃もあったなぁ。
メニューを決めたりする事前のミーティングと称しては飲み、キャンプが済んだ
あとは反省会と称して飲み、子育て時代のハイライトの時期でした。
いつの間にか1泊2日が2泊3日に延びて、持って行くものも、生活用品から遊
び道具、ギター、テント、タープ、ランタン・・・とどんどん増えていき、その
頃乗ってたワンボックスカーのライトエースはいつも満載状態でね、
「おいおい、どこへ夜逃げやねん?」みたいになってましたわ。
息子らも友人の子らも幼稚園が小学生に、中学生になり、部活の都合で途中に
抜けたり、二日目から来たりになっても参加してくれてました。
最後の方は大きい子らは大学生になって、バイトが済んだ夜中から参加!
とかもけっこうありましたね。
子供らはみんな学年が少しずつずれてたりしたのに、適当なコミュニティーが
自然にできて、楽しかったらしくてね、最後まで自分から進んで参加してました
ね。
昼間はちょこちょこと一緒に遊ぶけど、夜は子供チームはほったらかしでした。
それでも大きい子がちっちゃい子のめんどうみたり、一緒になって遊んだり、
なにより時間を気にせずおしゃべりしたり、遊んだりできることがいいみたい
でね、ぼくら大人チームに甘えることもなく、たっぷり自由時間をくれましたね。
中学生くらいになると、シレッとオトナの話の輪の中に入ってきてたりね、
にちゃにちゃ笑って聞いてました。
ああいうの、いい勉強になったんやろなと思います。
オトナたちはただウダウダと飲んで、歌って、食って、ダベって過ごす自堕落
なキャンプ生活を楽しむのですが、洗い物、水汲み、買い出し、それに最後の
めんどくさい「片づけ」なんかのときはサッとみんなが動いてね、用事がパパッ
と片付くんですよね。
その感じがすごく好きでした。
遊びもマジメにやらんとオモロクないのでありますよ。
男親が息子と作る思い出のド定番「キャッチボール!」もよくしたもんですよ。
そんなのが何年続いたんやろ?
贅沢な時間だったんですね。
それに、いっつもお金にヒィヒィ言ってた(今もそこは変わってないですが
・・・)ので、旅館やホテルに泊るようなまともな家族旅行とかにはとうと
う行けなかったんですが、お正月休みは家族4人と犬1匹だけで車中泊の
キャンプ(?)で四国や九州に遠征したことが貴重な財産になりました。
みんな、子供の頃の家庭での自分の経験は普遍的なものと思い込むものでね。
うちの下の息子はそういう貧乏キャンプや貧乏旅行はどこの家でも毎年する
もので、自分の周りの友人たちも当然そんな経験をしているものと思い込み、
話が合わず、「ありゃ?こりゃなんかどうも違うぞ」
「世間の人らはもっとちゃんとした旅行をして、キャンプなんかそんなに
しょっちゅう行かんみたいやぞ」
・・・と大きくなってから気付いた時に疎外感を味わったようですわ。
お兄ちゃんの方も高校ぐらいの時、友人の家に遊びに行ってリビングルーム
の広さとか玄関のデカさに驚いてうちが貧乏であることに気付いたと言うて
ましたね。
時が移り、もうそんなことをする元気もヒマもなくなってしまいました。
テントもコンロも物置で埃をかぶっています。
BE-PALも植村直巳も読まなくなりました。
そういうことって、やっているその最中にはほんと、それが永遠に続くも
のと思ってるし、気付かんものですが今、こうやって振り返ってみると、
宝物のように輝いた時間なんですよね。
この理屈でいくと今やってることもまた、ときが経てば貴重な思い出に
変わるはずなわけで、「その時、その時」をじっくり味わいたいもんですわ。
大きい(と言っても250ccですが)方のバイクはほんとに年間2,3回しか
乗る機会がなくなってしまいましたが、ちっこい方(100cc)のは日常の足
として、ほぼ毎日のように乗っているワタクシです。
若い頃から足元スカスカのスクータータイプを持った経験がないので、便利なの
は重々理解しておるのですが、食わず嫌いですね、あのタイプが頼りなく思え、
怖くて苦手です。
いい歳して赤い色のスポーツタイプのバイクに(XR100モタードっていう)
乗って毎日うれしそうにお遣いに、配達に、集金にと走り回ってます。
さすがにちょっと恥ずかしいので、お得意さんの入り口からちょっと離れた場所
に停めて、見られないようにすることもあるんですけどね。
昔のバイクに比べたら剛性感がすごくあるし、前後ディスクのブレーキも
めちゃくちゃ良く効くし・・・いや、そんなハナシはまたいずれ・・・。
30年以上無事故でやってこられたことについての自慢バナシなので鼻につく
とは思いますが、ひょっとして何かのヒントにもなるかもしれませんので、
興味のある方は次へ進みましょう
↓
とにかく一番に肝に銘じていることは、「無視されてる」ってことなんですよ。
こっちの存在は相手には見えてない・・・という前提で走ってます。
こっちが優先だとか、信号がどうとか、そんなことは関係ないのです。
どっちが正しくたってぶつかって痛い目に合うのは間違いなくこっちですからね。
普通に広い道を走っていても、わき道から左折で合流してくるクルマに目の前
に飛び出されるのは「当たり前」なんですよね、
指示器も出さずに目の前を左折されるのも、普通に流れに乗って走ってるのに
強引に追い越されるのも「当たり前」。見えてないんですもん。
腹は立つけどね。
出てくること、やられることを前提にブレーキの準備とスピードの調整はせん
とあきません。
交差点を直進するのに右折待ちのクルマの動きにいちいちビビッてることなんか
もクルマの人は知らないんでしょうね。
ほんと、ちょっとでも動きかけられると「あ、見てくれてへんのちゃうか?」
と疑うので、バイクを逃げられる態勢にしつつ、ブレーキもすぐかけれる準備
をするんですね。
左折のウィンカーをしまい忘れてへんやろか?とかも一瞬考えますしね。
これもし、しまい忘れてチカチカやってたら、むこうにしたら「あ、曲がるん
や、一緒に行ってもたれ」ってなりますもんね。
非常に危険です。
でもウィンカーのしまい忘れはよくやるんですよね〜
以前、乗ってたXL80というバイクのリアウィンカーの配線を間違って
反対につないでしまっているのを気付かずにいましてね、交差点を右に
曲がるつもりで右にウィンカーを出してるつもりが左のが点いててね、
今まさにバイクを倒して曲がりますよ、というタイミングでその右側
を猛スピードで追い抜かれる・・・というニアミスをかみさんにさせて
しまった経験もありました。
ドライバーのみなさんはバイクのウィンカー信用しちゃダメですよ!
ちっこいバイクでよく遭遇するのが住宅密集地などで、小さな四つ角が連続
するような場面ですね。
一応こっちがメイン道路で交差する道が止まれの交差点の連続ですとキープ
レフトなんか大ウソでしてね、絶対キープセンターなんですよ。
路地から飛び出してくる軽トラのおっちゃんや、保育園の送迎のママさんを
かわせるだけのマージンが生まれるし、発見も一瞬早くなりますもんね。
キープレフトが出たついでに普段から感じる感想を書くと50ccの超慎
重運転のおっちゃん、おばちゃんを除いては、50〜125ccのちっこい
バイクはなるべく車線の中央を走った方が安全なんとちゃうか、ということ
です。
左端を走ると飛び出された時に対応しにくいし、イラチなクルマに強引に
追い越される危険があるんですよね。
ま、だからぼくは50ccの制限速度も40Kmに引き上げた方が安全なん
ちゃうん?派なんですけどね。
ぼくが乗ってるのは51cc〜125ccまでの原付2種という区分のバイク
なので、一般道ではクルマと同じスピードが出せるんですが、けっこう最近
まで最高50kmって思ってて、(昔はそうでしたよ確か)近所の60km
制限の道で悩んでたんですよね。いつ変わったんやろ?
やっぱり流れに乗る方が安全ですよ。
その60km制限の道は実際は70〜80kmで流れてて、けっこう全開
バリバリだぜぇ!・・・になっちゃいます。
信号待ち渋滞の左側のすり抜けはもちろんほめられたこっちゃないですが、
暑さ、寒さを我慢することとの引き換えに時間の節約と燃料の節約ができて
超エコな乗り物のバイクのある種特権なわけですが、(これがうっとうしい
ドライバーも多いでしょう)唐突に助手席側から人が降りてくる危険が
あるんですね。
つい、こないだ、いつもなら行っちゃうくらいの隙間があったのに、何とは
なしに止まったら、丁度そのクルマから人が降りてきましてね、そのまま
進んでたら絶対アウトだったタイミング。
ラッキーなヤツです、ワタクシ。
やっぱりね、ダメですよ、
良い子はすり抜けしちゃダメですよ。
ま、無視されて一番悲しかった経験は250ccのバイクに乗って高速道路
を走ってたときにね、前を何十分も延々と走ってたクルマのオネーチャンが
吸ってたタバコを窓からポイと捨てたんですよ。
真正面からこっちに向かって高速で火のついた吸殻が飛んでくるわけで、
「あわわ・・・」ですわ。
そんだけ長いこと一緒に走ってたら後ろがバイクの人やいうのぐらい気付け
よ、と。
後ろがクルマでもなんでも火のついた吸殻捨てること自体アホですけどね。
それにしてもその無神経さ・・・悲しかったなぁ。
いつもお客さんが入ってくるんじゃないかとビクビクしながら昼飯を食べるので、
カップラーメンやカップ焼きそばは、ついつい3分待たずにいっちゃうんですよ。
で、カップ焼きそばは安物が出てたりするとつい買ってしまったりするので
今まで色んな種類食べたけど、やっぱ、UFO以外はバツですな。
どう考えてもあの、たまにムショーに食べたくなるあの感じ、あれは怪しい
と睨んでおるのですよ、あれは絶対なんかヤバイクスリが入っとるね。
うん、まちがいない。軽い依存症やもん。
あとはかろうじて同じ日清の「ソース焼きそば」いうのが許せるレベルかな。
(これいつも安売りしとるねん)
んで、まあ、歯ごたえしっかり「アルデンテ」状態のUFOをいっつも食べ慣れて
おるわけでありますよ。
もともと麺類は固め、コシしっかり系が好みではあるんですがね。
それが、こないだ、たまたまちょっとゆっくりしたときにUFOを食べる機会
がありましてね、あせることもないし・・・とか思いながらお湯を入れてほかの
用事をしながら待つこと約3分。
お〜、これがちゃんとしたレシピに則って出来上がった正しいUFOであるな、
・・・とか思いつつおもむろに一口。
ん?・・・あかんやん、こんなんせっかくのUFO特売¥99が台無しやん!
状態ですわ。
前から薄々とは気付いてはいたのですよ。ちょっとお湯を捨てるのが遅れると
旨ないんちゃう?いうのね。
でも今回は確信しましたね。
UFOは1分半!
ワシのいうことを聞け!
みんなワシの言うことだけを聞いとったらええんや。
カップラーメン系もだいたい2分ぐらいで食べちゃうせっかちなぼくであります。
ですが、ここらへん限定かもしれんのですが、韓国の「辛ラーメン」いうのがあ
りましてね、激辛大好きなぼくはその値段の安さにもつられてよく食べるのです
よ。
で、こいつに限っては時間厳守!なのでありますよ。
・・・というかこいつ、ちゃんと3分良い子にして待ってても固い!
バキバキ音がするほどに固い!
でも辛さも強烈でやめられんのよね。お酢をちょいと混ぜて酸味を効かすと更に
クセになる味ですな。
よく混ぜてる間に少し柔らかくなるので、食べ終わるころには丁度ええ感じやね。
(食べ終わったらあかんがな・・・)
でも、スパゲッティのゆで時間はね、これは絶対袋に書いてある時間厳守やね。
たしかにその時間になったらええ具合になっとるから不思議やね。
え?当たり前ですか?
このゆでたてのやつにピエトロのガーリック醤油味のパスタソースをザッとか
けただけ!っていう素スパに一時ハマりましたね。マジうま。
でも最近はまたこれに色々アレンジして食べてるけどね。欲が出るんですね。
もっと、もっと、旨くできひんかって。
あ、そうそう、うちは夫婦そろって日本酒の熱燗が好きなのですがね。
今頃、居酒屋で若い店員さんに「燗で」って言っても通じにくいらしいですね。
「ヒヤで」っていったら水が出てきたりもするらしい。「そらおヒヤやろ!」
とつっこむ気にもなれんしね。
「燗で」いうたら缶ビールがでてきかねませんよ。
・・・あ、、で、(話がそれた・・・)しかも揃って超熱燗好きでしてね。
どこで熱燗頼んでもビミョーにぬるい感じがするわけですよ。
ま、普通、「燗」といえば良く「人肌」と言われるんですが、これけっこう
ぬるいですよ。しかも一気にお銚子1本開けんとますますぬるくなってまずく
なるしね。
味はよくわかるんでしょうけどね・・・。
熱燗で50度ぐらいらしいですね。
でもこれでもうちでは全然ダメ。
うちの奥さん、お膳をひっくり返して暴れます。
で、こないだ、業務用品売ってる店でたまたま食品の温度計が安く売ってた
ので買って帰りまして、さてワシらいったい何度の燗がええと思とるんやろ
、と計ってみたんですよ。
「これぐらいやな?」・・・とふたり意見が合った温度はなんと70℃!
熱すぎやろか?ワシらふたりともほんまは味わかってへんねんやろか?
けど、パンチがあって旨いんですよ、ほんまに。
味もキリリと引き立つ感じ。
(あやしいもんや)
あと、ビールは(最近は発泡酒オンリーですが)キンキンでないとちゃぶ台
ひっくり返しますし、コーヒーはアツアツでないと(計ってみたら83℃でした)
その場にぶちまけます。
(ウソですけど・・・)