年末の30日午前6時半、こうめが逝ってしまいました。

元々リンパ腫という病気を患っていて、体の外側も内側もいっぱい
デキモノができてはいたのですが、なんとか元気だったんですけどね。

丁度、正月休みに入った日の朝だったので夫婦でしっかり見送ってやる
ことができたのが救いです。

平日ならばお客さんの対応やなんやかんやで、愛想笑いを作りながらの
辛い別れになるところでした。

そんなとこまでちゃんと分かってて逝ってくれたんやね。
気ぃつかいの賢い子や。


先代の「ビーちゃん」は最高に「いいヤツ」やったけど、
こうめは最高に「かわいいヤツ」やったなぁ。
まじめでガンコで、執念深くてわがままで、かしこくて、柔らかくて、
美人で・・・ネコみたいなかわいい女の子やった。


ひとに触られるのは好きじゃなかったけど、ひとりにされるのは
大嫌いで最後まで留守番ができなかったなぁ。



カッカッカッ・・・と廊下を歩く爪の音。

こうめに占領されて座れなくて困る店の仕事場の椅子。

おやつを催促する上目づかいのうっとうしい目。

一緒に出かけるときの「おでかけグッズ」のめんどくさい準備。

匂いを嗅ぎ始めるとしつこくてちっとも前に進まない朝夕の散歩。

食事の準備。

飲み水の補充。

おしっこシートの交換。



いっぱいの「めんどくさい」をまだまだやりたかったな。


吠えないかわりにひとの目をじっと見つめて自分の意思を伝えてたこうめ。
最後の方もぼくの目をじっと見つめて
「おとうさん、しんどいわ。楽にしてよ」
という目で何度も見つめられた。

要求すればなんでもしてくれたおとうさんが
「なんで今は何もしてくれないんかな?」と思ったはず。
なんにもしてやれんことが辛かった。



日が経つごとに悲しみが治まるどころかますます募るばかりです。


新年早々暗い話題でごめんなさい。

こうめを愛してくださった皆様、ほんとうにありがとうございました。
多くの方に愛されてほんとううに幸せなヤツでした。

いっぱい「いいもの」をくれたけどあんまりちゃんと返してやれなかった。

ぼくが向こうの世界へ行ったときにはしっぽをビュンビュン振って飛びついて
出迎えて欲しいもんやな、と思っております。

特別に高くておいしいジャーキー持っていくし・・・。
母を看取る
ひとりごと その166
約1年お世話になった老健の施設から特養の施設へ入所できたのが
9月4日。

肺炎を起こして救急車で病院へ運ばれたのが10月9日。

そして10月の末に病院側から肺炎の治療は終わったとのことで、これからの
方針についての相談があった。

嚥下(飲み込み)ができない上に浮腫(むくみ)で点滴の針も刺せなくなった母
への次の処置として、医師は経管栄養を鼻から、または胃ろうを作って入れて
、の延命処置を提案した。

ぼくも当然、選択肢は鼻からか、胃ろうか、その後はどの長期療養介護型の
病院にするか・・・という方向で考えていた。

病院の地域連携室という部署でその方向で調整してる最中にそれまで入所して
た施設での「看取り」という選択肢もあることを提案された。

元々希望として経管栄養、延命治療はしないつもりだったので、今度はその方向
での調整に入った。

すぐに特養の施設のケアマネさんと相談して「看取り」が決定した。

でも決定した後に看取りの期間中は親族の24時間の付添いが必要と知らされる。

「聞いてないよ」状態になったけど、そこで話をひっくり返す気もなく、ケアマネさん
の「たいてい2,3日ですよ。長くても1週間」という言葉を聞いて覚悟を決めた。

なんとか会社に無理を言って昼間の時間を都合してくれる兄と、昼間は店をやら
ねばならぬぼくとで相談してローテーションを決めた。

当然ぼくは夜から翌朝まで毎日担当ということになった。


10月31日金曜日の夜から泊まり込み開始。
翌土曜は店が休みなのでそのまま昼間も通しで付き添い、日曜の朝に交代。
ソファで熟睡できるはずもなく疲れがたまる。



「看取り」というのは言葉はキレイけど、結局は「放置」なのですね。

もちろん床ずれ防止のための体位の変更、おむつ交換、口腔ケア、そのうえ
入浴までさせてはもらえるのですが、栄養は当然のこと、水分も一切与えない
状態で過ごさせます。

災害時の極限状態では生死の分かれ目は72時間とよく言われますね。
人間は食べなくても1か月生きられるけど、水がないと1週間もたない、とも言われ
ますよね。

でもそういうのってあくまで一般論、あくまで目安なんですね。



曜日が一巡りして2回目の金曜の夜も持ちこたえ、次の週にかかるとさすがに兄の方
も会社を休みにくい状況になり、ほんとにどうしようかと悩んで迎えた2回目の土曜の
夜でした。

夜の8時頃、兄と交代し、様子を見てたら、どうも今までとは違う感じがした。
肩で大きく息をしてるし、ぼくがいるソファの方を向いてるときに薄目を開けてぼくをじっと
見てる感じがする。

手を握ってやって、「しんどいか?」「大丈夫や、ゆっくり寝たらええんや」「おやすみ」
と言った。
それまでにも何回もそんな状況になって、何回もくりかえした言葉。

その後職員の方が来られて体位を変えてくれてぼくからは顔がよく見えない向こう向きに
なった。
そして、いくぶん穏やかな息遣いになった。

ぼくは「ありゃ、こりゃ今夜も大丈夫じゃ」と思った。
正直に言うと「ええかげんにしてほしい」とも思ってた。

とりあえずぼくも寝とこう、とソファに横になる。

ウトウトして職員さんの気配に気づき目が覚めたのが午前零時半頃。
目が覚めたのでまたしばらく手を握って様子を見る。
相変わらず肩で大きく息をするものの、安定はしてる。

2時頃になってまた少し寝ることにした。

少しだけ眠った感覚があって次に時計をみたら3時半。
何度もやったように母の方を見て、呼吸してるかどうかを確かめた。

ふとんが上下に動いてないのに気付いた。
そばに行ってよく見た。
息をしていなかった。

おでこにさわるとすでに冷たくなっていた。
でも首筋に手をやると、まだ温かい。

「やっと終わった」という安堵感。
正直最初にそれがきた。


落ち着いてトイレに行き、すっきりしたところで、当直の職員さんに連絡。
その後兄に電話。


そうやって「看取り」が終わりました。



その最中にも思ったことながら、やはり終わって見れば濃密で有意義な母との
最後の9日間になりました。
でもその最中はほんとツラかった。
早くラクになりたかった。
そう思うことイコール母に早く死んでくれと思っていることなので、そこには当然
葛藤もありましたけどね。


水を与えるとその水で溺れてアウト、ということで、唇を湿らせる程度に脱脂綿
などで水分を与えるのですが、ほぼ反応できなくなっていても、その水を飲もう
と脱脂綿を吸いにくるわけですよ。
口の周りに残った水分や保湿剤も吸収しようと口を動かすのですね。
これはかなり残酷な場面でした。

飢えも渇きも感じていない、ということらしいのですが、そればっかりは本人に聞いて
みないことにはわかりませんもんね。

7日目くらいまではときおり言葉に反応して笑顔もみせたり、うわごとのように何かを
一生懸命しゃべったりしてました。
たいしたもんですわ、うちのオカン。

人生の最後をどう生きるべきか、どう死んでいくべきか、身をもって色々教えてくれました。
自分の葬儀の段取りや、その費用など、それに保険や年金の資料まできっちりと整理して
くれていて、そこも見習うべき点でありました。

意思表示ができない者の代理として、この介護生活の約2年、常に何かを選択して
決断することを迫られました。

特に最後の1か月は色んな人から提案されることを選択して決断していくことの連続
でした。
これがけっこうツラい仕事になりました。




その後クリスチャンだった本人の希望通り、ずっと通ってた垂水の教会で家族とほんの
少しの親族だけの葬儀を済ませ、大好きだった花にこれでもか、っていうくらいに囲まれて
旅立っていきました。


色々心配してくださったみなさま、ありがとうございました。


とりあえずぼくは元気です。
ひとりごと その167
こうめが逝きました